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自分史

ライフコーチ刈谷洋介の自分史【1/7】 〜幼少・小学生時代〜

2022年8月15日

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ライフコーチ刈谷の自分史 〜その1〜 幼少・小学生時代

1979年11月26日。宮城県仙台市に生まれる。その後、幼少期と思春期を東京下北沢で過ごす。(山形県光華幼稚園〜渋谷区笹塚幼稚園〜世田谷区東大原小学校 ※現:下北沢小学校

~幼少期•小学生時代~

ライフコーチ

小学校1年生の僕と母

宮城県生まれの両親のもと、仙台で生まれた僕は洋介と命名された。両親からは、「太平洋のように、広い心を持った子に育ってほしい」という願いを込められてつけられたようだ。この話を聞く度に、僕は両親の期待に応えられているのだろうかと自問することがある(笑)。

仙台で生まれてすぐに、銀行員だった父の仕事の関係で山形へ引っ越した。正直あまり記憶がないのだが、母や姉に手を引かれて、雪道を通園した記憶がうっすらと残っている。とても温もりのある感覚。幼稚園の年中で東京に引っ越し、3歳位までしか山形にいなかっのだが記憶はある程度残っている。裏庭で父や姉とかまくらを作ったり、椎茸を育てたり、友達のS君の家でテレビゲームをしたり、とても素朴で、家族の愛に包まれた温かい空気が流れていた。

〜東京への引っ越し、恋心と母との思い出〜

書きながら思い出したのだが、僕は東京の幼稚園に引っ越してきて、恋心が芽生えたことをうっすらと覚えている。年中で恋心が芽生えるって早いのだろうか?ただ、その子の名前は覚えていない。でも確かに、その子を見るとドキドキした感覚があった。山形では芽生えなかった感情が、なぜ東京で開花したのだろう?(笑)

また、いつも迎えに来てくれる母と手を繋ぎ、玉川上水の脇道を「ママ、ママ」と言いながら家路に着いた日々を思い出す。あ、やばい。既に母は他界しているので思い出したら涙腺が緩んできた(笑)。 幼稚園の僕は、特に目立つこともなく、これといった特徴もなく、とにかく弱い子だった。銀行の社宅に住んでいたのだが、一個下のA君に呼び捨てにされるほど弱かった。そんな自分を見ながら、「この子の将来は大丈夫だろうか?」と母は常に心配していたようだ。

〜小学校入学、3つ離れた兄の存在〜

小学校では父が野球ファンだったこともあり、自然と野球をするようになった。でも、野球のセンスはからっきしだった。肩が強いわけでも、パワーがあるわけでも、足が速いわけでもなく、5年生ではセカンド、6年生ではレフト、打順は6番とか7番とか、いわゆる平凡な目立たな〜い感じの選手だった。でも、野球をやっていたことで、父とキャッチボールできたことが本当に良い思い出になった。社宅の裏庭で週末はよく父とキャッチボールをしていた。父と僕のグローブは今でも家に残っている。父は僕が小学校の高学年に上がったあたりで大阪支店へと転勤になった。それ以降はほぼキャッチボールはできていない。野球で活躍した思い出はあまりないけど、父と思い出をつくれたことには心から感謝している。

そしてあれは恐らく小学校の時だったと思う。僕の保険証には「次男」と書かれていたのだ。「あれ?僕の家には6つ離れた姉と、僕しかいないはずだが?」と思って母に聞いてみたら、姉と僕の間に3つ離れた兄がいたらしい。兄は、生まれて数週間で亡くなってしまった。普段真面目な話をしない父が、「あの時の勝子(母の名前)は見てられなかった」という言葉を残したことを覚えている。兄の名前は健一。だから、僕は健ちゃんの生まれ変わりということで母にはとても愛されていた。母があまりに僕をかわいがるものだから、姉は嫉妬して僕の顔をつねって泣かしたらしい(笑)。そんな僕は、「お兄ちゃんの分もしっかり親孝行しないと!」と気合をいれていたことを思い出す。

〜自分の才能に気づくが、いじめで挫折〜

僕の価値観に大きな影響を与えることになる事件が起きたのは小学校4年生だ。今でも忘れられない。僕は子供の頃から歌だけは得意だった。音楽の成績だけは常に5段階中の「5」で、自分でも音楽の才能があると気づいていた。小学校の卒業アルバムでも将来の夢は歌手と書くほど歌が好きだった。チャゲ&飛鳥さんや槇原敬之さんが大好きで、彼らのヒットソングをいつも歌っていた。4年生の学芸会が転機だった。その学芸会はミュージカル形式になっており、主役を決めるオーディションがあった。僕は、自分の歌と演技の才能を信じて応募、審査員の前で歌を披露して主役の座を勝ち取った。学芸会では体育館に集まる観客の前で歌を披露し、その姿を見て父は涙を流していたそうだ。そして、その年にクラブ活動で演劇部が開設された。僕は学芸会での活躍もあり、意気揚々と演劇部に入部した。しかし、部員が僕以外女子だった。それが理由かは知らないが、ひどいいじめにあった。僕は学校に行けなくなった。親に話すのもカッコ悪いと思った僕は一人で耐え、毎晩枕を涙で濡らし、仮病を使っては学校を休んだ。そしてある日、耐えられなくなった僕は、いじめっ子に泣きながら殴りかかった。耐えられなかった。それ以降、いじめはなくなった。正直あの時の記憶はうっすらとしか残っていない。きっと、忘れ去りたいと言う気持ちが記憶の彼方へと追いやったのかもしれない。

「女子の中に男子一人でいることの何が悪い!」

「好きなことをやることの何が悪い!」

そう強く感じていた。

大多数と違ったことをやることでいじめられた理不尽さに対する憤りが、自分の価値観形成に大きく影響したことは自分でも強く認識している。

〜強くなりたい、そしてバスケに転身〜

もうこれ以上いじめられたくないといった気持ちが強くなった僕は、中学校で強豪のバスケ部に入部した。スラムダンク全盛期で社会現象になるほどバスケ部の入部が多く、30人もの学生が入部した記憶がある。僕がバスケ部に入部したのは二つ理由がある。小学校のミニバスケットボール部が競合で、そこそこ背が高かったこともあり、6年生の終わりにバスケをやらないか?と声をかけてもらえたこと。そして、もうひとつは弱い自分から卒業したいという気持ちだ。当時世田谷区北沢中学校はバスケの名門だった世田谷区東大原小学校(現:下北沢小学校)の卒業生が多く集まるのでバスケ部に力を入れていた。

「ここで活躍すれば、弱い自分から卒業できるかもしれない」

そんな気持ちを抱き、僕はバスケ部に入部した。そして、そこでは想像を超える地獄のような練習が待っていた。

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