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自分史

ライフコーチ刈谷洋介の自分史【6/7】 〜 MBA留学・天国と地獄の30代 〜 後編

2022年8月21日

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ライフコーチ刈谷洋介の自分史〜その6〜 MBA留学、天国と地獄の30代 〜 後編

2011年11月 株式会社ジャパンビジネスラボ入社 プレゼンスコーチ就任
2014年4月   プレゼンス東京校マネージャー就任 全社執行役員就任
2015年4月   プレゼンス代表就任 全社取締役就任
2017年4月   全社常務取締役就任

〜憧れの人の他界〜

ライフコーチ刈谷洋介

プレゼンス代表 兼 全社役員時代の僕。

僕は2006年にプレゼンスに通い始めた頃から、ずっと「プレゼンス」を思い続けていた。まるで片思いの恋愛のように、一途に思い続けていた。僕は渡英前に一度、プレゼンスの創業者の太郎さんと面会をさせていただいた。「イギリスから帰ってくるのを待っているからね」そう言葉をもらえたことが、僕の人生の中で、最も嬉しかったことの一つとして心に残っているし、その時に頂いた太郎さんの名刺を、彼の著書である「アツイコトバ」の書籍のしおりとして今も使っている。とても、とても、思い出深い出来事だった。そして、自分がプレゼンスで味わった原体験、そして、太郎さんやお世話になったコーチの方々と一緒に働きたいという思いが僕をここまで突き動かしてきた。そして、あれはイギリスに渡って一年が経過した頃だと思う。当時のプレゼンスの代表から電話があり、太郎さんが病におかされており、もう長くはないかもしれないという内容だった。僕は愕然とした。太郎さんと一緒に働くことが夢だった。その夢が潰えそうなこと、太郎さんと一緒に夢を見ることが僕にとっての切なる願いだったが、それが、叶わぬ夢になりそうなこと、正直、受け入れきれなかった。近くの教会へと足を伸ばしては、「太郎さん、どうか、生きてください」そう願いながら日々を過ごした。そして、僕は、ヨーロッパの旅の途中、オーストリアのウィーンのホテルで日本のニュースを開いた時に、憧れの人の死を知ることになった。

〜中国へ渡り日本へ帰国、夢だったプレゼンスコーチへ就任〜

太郎さんが他界された後、プレゼンスの方から連絡があり「太郎さんが他界してしまったが、それでも来てくれるのか?」という質問に、僕は迷わず「はい」と答えた。正直、目標の太郎さんと一緒に働くという夢が潰えたときには、半分心に穴があいてしまったような感覚だったが、一緒に働いてきた人の喪失感は僕の比ではないはずだと感じていたし、それでも僕が役に立てることがあるなら全力でやりたいと思った。そして、生前の太郎さんからのミッションは「中国語コース」を拡大することだった。中国語は多少出来たが、まだまだ英語に比べると劣っていたし、「中国語×コーチング」というビジネスモデルを構築する上では、自分の中国語レベルを磨くことが必須と感じ、イギリスでの卒論を同級生よりも早く書き上げ、早めに中国へと渡った。その後、四川大学で中国語をブラッシュアップした。それ以降は時間が許す限り中国語学習に時間を費やした。僕の頭は、如何にして太郎さんのミッションを遂行するかということ、つまり「中国語学習」と「コーチング」をどう融合させるかということで頭がいっぱいだった。そしてイギリスMBAと中国での短期留学を終えて帰国、念願のプレゼンスのコーチへと就任した。

〜天職との出会い〜

入社してからは英語コーチ&中国語コーチとしての仕事が始まった。まさに「天職」だった。自分の原体験が活かせる仕事だったということもあるが、やはり僕には「コーチ」が肌に合っていた。性善説で動くことを好む僕は、あまり疑うことをしない。コーチングはクライアントの潜在能力や可能性を信じることから全てが始まる。初めて担当したTOEICコースのことは今でも覚えているし、中国語のスピーキングコースを立ち上げた時は、嬉しさや悔しさで、一人になった時に一番奥の教室で涙を流した。おそらく、太郎さんに見てもらいたかったのだと思う。駐在先でリスクを取り仕事を辞めてから、やっとここまでたどり着いた喜びと、乗り越えてきた苦労、そしてやりきれなさと、さまざま気持ちがないまぜになっていた。

そこからは取り憑かれたように、馬車馬のように働いた。仕事が楽しくて楽しくてしょうがなかった。コーチの平均的な担当クラスは週に3〜5本だったが、僕は多い時には7本担当した。また1日多くても2クラス担当が標準のところ3クラス担当するなど仕事に没頭した。それまでtoBの仕事がメインだった自分にはtoCで直接受講生から「ありがとう」という言葉をもらえることが嬉しくしょうがなかった。自分の関わる受講生が、TOEICで200点アップ、中国語検定試験の合格、英会話力や中国語会話力の向上、ハーバードやオックスフォード、ケンブリッジやMITなどの超一流大学からオファーをもらうなど、どんどん成果が出始めていた。そして入社から3年半が経過、気づけば僕は憧れだったスクールの代表に就任し、続いて、全社の常務取締役へと昇進していた。だが、喜びも束の間。この辺りから、歯車が崩れ始める感覚を覚え始めていた。

〜母の急逝、経営のプレッシャーでメンタル崩壊〜

マネージメントや経営とコーチでは求められる能力が異なる。頭では分かっていたが、まざまざと思い知らされた。僕は4年半近くプレイングマネージャーとして仕事をしていた。正直かなりきつかった。違う脳みそを同時に使う感覚である。マネージメントや経営の仕事は、性善説だけでできるほど甘くはなかった。教壇に立ち、受講生と一緒に夢を追いかけるあの手触り感に溢れたウエットな感覚と、社員の8割の20人近くを直接管理し、一人一人のキャリアと向き合い、仕事をアサインし、時には給与交渉、限られたポストのアサイン、中間管理職的な調整、売上及び利益の責任、人材採用から外部の人間関係の構築、トラブルシューティングから新規事業の立案まで、バリューチェーンの全てに関わる業務をこなすのは正直負担が大きすぎた。また、数年にわたり労働裁判が続いており、僕のエネルギーはどんどん擦り減り、精神状態は限界に達していた。そして追い討ちをかけるように最愛の母が急逝した。仕事中に母が倒れたと病院から連絡があった。僕は「母は大丈夫なんですか!?」と聞くと「ここでは言えないのですぐに病院に来てください」としか言われなかった。僕は嫌な予感がした。そして、倒れてから数時間後、僕と妻と駆けつけた父、そしてロンドンにいる姉をLineで繋いだ直後、人工呼吸器に繋がれた母は息を引き取った。本当に一瞬の出来事で、父は一体何が起こっているのか把握できないような状態だった。

そこから追い討ちをかけるかのように父の体調も悪化し始めた。認知症が進行し、仕事中にも頻繁に電話がかかってくるようになった。日本橋に住んでいた僕と妻は、父が心配で頻繁に様子を見に行った。しかし、食事を用意しても手をつけず、どんどん衰弱していった。地元の友人から父が徘徊しているとの情報が入り、僕と妻はこのままでは仕事を続けられないと感じ、施設に依頼することを決めた。ただ、施設はそう簡単には見つからない。しばらくこの生活を続け、やっとのことで施設が見つかった。しかし、僕の精神状態は既に限界に達していた。妻は僕の体を心配し、「本当に仕事を継続できるの?」という問いを何度も出されたことはうっすら記憶に残っている。僕の答えは「やる、やらなきゃ後で後悔する」こんなことを話していた。そして、僕は毎日のように、狂ったように同じことを繰り返し話すようになっていった。僕はあまり覚えていないのだが、妻から聞いた話によると、僕は帰宅後、毎晩、同じような不平不満を10回、20回と狂ったように妻にぶつけ続けていたようだ。かなり危ない状態だ。そして妻に説得されて心療内科に行き、先生から僕の行動は「異常だ」と言われ、うつ病の診断を受けた。これ以上の業務継続は難しいと判断された僕は診断書を渡され、天職を失うことになる。この時、僕は39歳だった。

刈谷洋介の自分史〜最終回〜は以下をクリック

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ライフコーチ刈谷洋介の自分史【7/7】 〜中国全省の旅・Coaching-L 創業〜(終)

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