自分史

ライフコーチ刈谷洋介の自分史【3/7】 〜大学時代・就職活動〜|ライフコーチング |コーチング・エル

2022年8月18日

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ライフコーチ刈谷洋介の自分史〜その3〜 大学時代・就職活動

1998年 國學院大学法学部法律学科入学
2002年 Sony Trading International 入社

〜音楽活動に明け暮れる大学時代〜

ライフコーチ
大学卒業間際、※DJ Short Cut(手前)とのスクラッチセッション

※DMC USAのファイナリスト、Invisible Skratch PiklzやBeat Junkiesに所属するDJ界の大御所

高校の文系優組では、大学受験は当たり前といった空気が漂っていたが、僕には「何故」受験をするのかが理解できなかった。周りの空気に流され、一度は受験を考え渋谷の塾に行ったが一日で辞めた。あの塾の空気感と違和感は今でも忘れられない。「こりゃ無理だ」と思って即決した(笑)。理由がないと動けない性格は、この頃から既に顕在化していたのだと思う。僕は、強制的な勉強や目的のない受験には全く興味が持てなかった。高校のクラスメートが一生懸命勉強しているときに、僕は相変わらず渋谷や六本木に夢中だった。クラブでDJが流すレコード、音楽が人を酔わせる魅力に取り憑かれ、クラブDJと仲良くなってはレコードの曲名を教えてもらったり、彼らの家に通ってはターンテーブルの使い方やスクラッチの仕方を教えてもらったり、レコード屋に朝から晩までレア物を掘り当てに行ったり、とにかくDJに夢中だった。そして僕は半ば親に説得されるような形で附属の大学に入学した。そして、完全にドロップアウト気味だった僕は、卒業アルバムの寄せ書きコーナーに「妥協しすぎ」と書かれた。そのアルバムは、今でも家に残っている。

〜自分の名前で初めてもらった給与は六本木のクラブ〜

ライフコーチ
DJでもらったお給料は、自分の名前で活動する原点

DJは本当に楽しかった。高校時代に抑圧された自由を解放するかのように大学時代は徹底的にやりたいことに時間を使った。多い日は1日8時間くらいDJの練習をした(DJ用のミキサーは僕の練習の汗でメッキが剥がれ切っている)。同時にバイトと女の子に明け暮れ(笑)、バイト代はほぼ全てレコードと遊びに使った(今でもレコードは500枚程残っている。僕の宝物だ)。そして、僕は自分の名前でプロとして初めてもらった給与は六本木のクラブだった。姉が紹介してくれた六本木交差点近くにあった地下のクラブ。いや〜、初めて10代であのクラブに入った時のドキドキ感は未だに忘れられない。当時は安室奈美恵さんの全盛期だったから、彼女のバックダンサーとかもクラブにいた。僕がもらった仕事は平日で、お客さんが少ない日だったが、仕事を貰えた時は喜びと緊張を同時に感じていたことを覚えている。そのクラブで夜の10時から明け方お客さんが引くまでレコードを回し続けた。自分の曲で踊る人たち、磨いた技術を披露する場所、僕は夢中だった。そしてその日、現金で渡されたお給料は、初めて自分の名前と技術でいただいたお給料として、今でも忘れられない思い出となっている。

〜DJでの挫折、そして就活の失敗〜

ライフコーチ
自分の評価と社会の評価との間で葛藤する日々

高校時代から長らく付き合っていた彼女と別れた僕は、しばらく荒れていた。そして、DJでも練習に練習を重ねたが、なかなか結果が出ない。僕はこの頃からクラブDJ(※1)と同時にバトルDJ(※2)としても活動を始めていた。いくつかのDJバトルに出場したが、やはり結果がついてこない。大学3年生の時のDMC関東予選(※3)を最後に、Japan Final(いわゆる全国大会)に出られなければ就職しようと決めていた。親の脛をかじりながら音楽活動を続けることだけは絶対にしたくないといったプライドがあったのか、僕はきっぱりとやめることを決めた。大会は渋谷の丸山町にあるクラブVUENOS、審査員にはDJをやっている人であれば誰もが知っている大御所の面々が並んでいる。僕は手が震えそうになりながら、死ぬほど練習したルーティンを全力で披露した。高校大学の後輩も見に来てくれていた。彼らの応援を力に、全力でプレーした。

そして、結果発表。

残念ながら、ここで桜が咲くことはなかった。

Japan Final出場を逃した僕は、ここから就職活動を始めることになった。

※1 クラブで音楽を途切れなくかけ続け、フロアを盛り上げるスタイルのDJ
※2 DJの技術(スクラッチやジャグリング)を競い合うスタイルのDJ
※3 DMC World DJ Championshipsと呼ばれるアメリカが本拠地のDJの大会

僕が就職活動を始める頃には、多くの学生が就活を終えていた。僕は焦るように、まずは志望企業を絞り込んだ。自己分析やSPI対策などはせず、音楽をやっていたという理由だけで、大手のエンタメ企業に応募しまくった。ソニーミュージック、東芝EMI、アミューズ、エイベックスなどなど。結果はもちろん、全敗(笑)。箸にも棒にもかからないとはまさにこのこと。そしてこのころから、徐々に学歴コンプレックスを持つようになっていた。就活には学歴が大きく関わってくるという事実をふつふつと感じ始めていたのだ。僕は高校時代、啖呵を切って「理由のない勉強はしない」と突っ張っていたくせに、就活では学歴が関係する事実にひどく落ち込んだ。

「俺はもっとやればできたのに」

「頑張れば早慶だって入れたかもしれないのに」

という後の祭りのような思いがふつふつと込み上げてきたことを覚えている。いや〜、でも今思い返すと、凄くかわいいなぁ〜、俺、と思う。自分で決断したくせに、後悔したり、グラグラに揺れて、ブレブレにぶれまくってる(笑)。自分自身の評価と社会からの評価の狭間で揺れ動いていた時期なんだろうなぁ〜と感じる。

結局、最後まで志望企業からは全くお声は掛からず、海外に関連するという理由だけで選んだソニーのグループ企業に拾ってもらう形で、僕の就職活動は幕を閉じることになった。

〜入社一年目、スーツに耐えられない日々と恵まれた人間関係〜

ライフコーチ
仕事内容にやりがいを感じられず、もやもやした日々を過ごす

僕の一社目の会社はソニートレーディングインターナショナルというソニー製品の部品を輸出入するいわゆる専門商社だった。今でも忘れられないのは、スーツでの通勤だ。大学時代はアフロ、長髪、ツイスター、ダボダボのジーンズに、XLのTシャツを来て六本木と渋谷を練り歩いていた僕にとって、ネクタイ&スーツは苦痛以外の何物でもなかった。そして、満員の山手線、品川駅の人の波、全く興味の湧かない仕事をしながら、

「いったい俺は何をやっているんだ?」

入社して数ヶ月はそんなことばかりを考える日々だった。

でも救われたのは先輩や同期の存在だ。ソニーグループが全て同じかどうかは分からないけど、とにかく人間関係がフラットだった。先輩には本当に可愛がってもらったな。上下関係もほとんどなく、兄貴と弟のような関係で、先輩なのに兄さんと読んだり、あだ名で呼びあったり、学校に行っているような感覚。役員と一緒にゴルフに行ったりもしたけど、夜はみんなでゲームをして盛り上がったり、今思うと部活のようだった。あ、そういえば、先輩に舐めた口調で口を聞いてキレられたり、上司に軽口を叩いて殴られたり、飲み過ぎで取引先の課長との打ち合わせをすっぽかしたこともあったっけ(笑)。そんなやんちゃな時代だった。みなさん、本当にすみませんでした。。。

人間関係には恵まれていた一方、僕は仕事内容がどうしても好きにはなれなかった。部品調達や輸出入業務をすごく楽しんでやっている人もいる一方、どうも僕には手触り感がなかった。業務内容はtoBがメインで、ソニーグループ内でのやりとりが多く、直接エンドユーザーと関わることは皆無だった。学生時代のDJ経験から、お客様の反応をダイレクトに感じられるtoCの仕事の方が向いているのかもしれないと薄々感じ始めつつ、入社一年目を終えることになった。

セッション内容詳細について

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