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自分史

ライフコーチ刈谷洋介の自分史【4/7】〜もがき続けた20代〜

2022年8月19日

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ライフコーチ刈谷洋介の自分史〜その4〜 もがき続けた20代

2007年 ソニーサプライチェーソリューション(China)駐在
2009年 同僚の妻と国際結婚

〜学歴コンプレックス、そして、やりたいことが分からない〜

ライフコーチ

上海駐在中の28歳の僕。背景は上海の外灘。

入社してから数年間、仕事の面白さをなかなか感じられないまま時間だけが過ぎていった。ただ、そんな時間の使い方はもったいないと感じ始めた僕は、ソニーが提供する社内資格を片っぱしから取りまくった。バイヤー資格は包括的にソニーのバイヤーに必要な部品知識やリスクマネージメントに関連する財務諸表の読み方等を学ぶのだが難易度はかなり高かった。僕は当時半導体のバイヤーをやっていたので半導体の専門知識を問われる科目もあった。資材法務という商法の勉強も必死にした。資材法務は本を丸々一冊暗記した(笑)。一体何故あんなに勉強できたのか今でも不思議だ。きっと、学歴コンプレックスを抱えていたから、何かを証明したかったのかもしれない。今思うと、学生時代にやらなかった「未完了」を「完了」させたくて、きっと必死だったのだろう。2年目からはソニーロジスティクスと合併し、ソニーサプライチェーンソリューションという社名に変更され、この頃から漠然と海外駐在を意識するようになる。

〜海外への憧れ、そして失恋〜

必死に仕事をしていたら面白さも徐々に感じ始めた。海外出張にも行けるようになり、取引先との交渉もうまく進められるようになってきた。これからのキャリアをどうしていこうか考えていたところ、ショックなことが起こった。当時付き合っていた彼女に振られたのである。この出来事が、自分を大きく「海外」というキーワードへと動かした。当時、僕はニューヨーク生まれ、ニューヨーク育ちの日英バイリンガルの彼女と付き合っていたのが、遠距離をしており、彼女の留学先のイタリアに遊びに行った時に見事に振られることになる。当時の僕はかなりのドメスティックで、英語なんて全く話せない。海外に住んだことはおろか、大学の卒業旅行が初めての海外というほど海外には疎かった。時間が経過するにつれ、国際舞台で活躍する彼女と自分の距離は徐々に広がっていき、「人生の方向性の違い」が理由で、僕はイタリアで別れを告げられた。彼女の優しさで、「人生の方向性」というやんわりとした表現だったが、明らかに僕の国際感覚のなさが原因だったと思う。あの時の帰国のフライトは憔悴しきっていた。フィレンツェの空港では気の抜けた炭酸水のようになっていたことが、今でも忘れられない(笑)。

〜憧れの人との出会い〜

日本に戻ってからはしばらく荒れたなぁ。先輩や後輩と毎日のように飲み歩いていた。オフィスが恵比寿だったこともあり、多い時は週5日位で飲みに行っていた。そんな頃、語学&海外コンプレックスが日に日に増しており、徐々にコンプレックスの克服方法の一つとして海外駐在を考え始めた(なんか20代はコンプレックスばっかり(笑))。でも英語なんて高校1年生以降ろくに勉強していないし、どうすれば良いか全く分からなかった。まずは英文法書を購入して、ざっと勉強して受けた初めてのTOEICはまさかの300点台。

「やばい、これはやばすぎる!適当にマークシートを塗ったって4択なんだから250点は取れるはずなのに、、、」

そんな感じで絶望感に打ちひしがれて地元の本屋で手に取った本が、「TOEIC900点、TOEFL250点の王道」という本だった。筆者は杉村太郎さん、当時はよく知らなかったけど、どうやら業界では相当な有名人らしかった。その本の内容や勉強方法に衝撃を受け、彼が創業した日本初の語学コーチングスクールである「プレゼンス」の門を叩いた。表参道のとある雑居ビル、今でもあのエレベーターに乗る時の緊張感は忘れられない。オフィスに入るとホストみたいな人たちがいて、とてもじゃないけど語学を学ぶ場所には見えなかった。このスクールはコーチングをベースに短期集中でのスコアアップを売りにしており、コーチは勉強のやり方の伝授、受講生のモチベーションの維持管理を主に行い、英語自体を教えることはない、という16年前からするとかなりセンセーショナルな仕組み。また、空いた時間は全て英語に捧げるというような超スパルタ校。そして、ホストのような、メッシュの入ったロン毛の方の説明に魅了された僕は、その場で入学を決意した。

「もうこんなコンプレックスとは、おさらばだ」

そんな気持ちで、腹を括ったことを覚えている。

〜英語の猛勉強、海外駐在、そして退職〜

当時は26歳だったと思う。仕事以外の時間は全て英語に投下した。先輩たちには目標があるので飲みには付き合えないことを伝えて理解してもらい(正直これを伝える時はめっちゃ緊張したなぁ。どう伝えるべきか当時のコーチに相談もした)、その期間は一切お酒も飲まなかった。平均4時間〜5時間の睡眠で2ヶ月以上勉強したと思う(若いってすごい)。結果、TOEICの点数は200点近く上がった。それからも勉強を継続し、英会話力も上げて、英語のスピーチコンテストにも出場し(3位入賞^^)、目標だった海外駐在の切符を手にした。英語ができるようになって、周りの見る目が如実に変わったことを今でも覚えている。そして、これらの体験により「コーチング」というキーワードが僕の脳に焼き付けられたことは間違いない。

〜1,000万を投資、妻と一緒に夢を追う〜

無事に駐在の切符を手に入れ、僕は中国の上海に赴任した。当時2007年の上海は絶頂期、経済も二桁成長を記録しており、まさに「バブル」の様相を呈していた。最初の一年は何もかもが楽しかった。初めての海外生活、英語での仕事も板についてきて自信も出てきた。120平米の家に一人で住み、お手伝いさんもいる。給与水準も申し分ない。ありとあらゆるものが満たされていた。でも、不思議と何かが欠けていた。上海生活に慣れてきた頃、そんな感覚が湧き上がってきたことを今でも強烈に覚えている。

「環境が変わっても、やっていることが変わらなければ何も変わらない」

僕は相変わらず仕事自体には面白さを感じていなかった。駐在という「環境の変化」に頼ることで、きっと何かが変わるはずだと期待していた。でも、結局、僕の内面は何も変わらなかった。僕は「この先の人生をどう生きていきたいのか?」という「あり方」に意識を当てて自問自答を繰り返した結果、やはり、ずっと心の奥底にあった、お世話になった語学コーチングスクールのコーチになりたいという想いを抑えきれなくなった。その頃だ。当時のプレゼンスの代表が上海に会いに来てくれた。そして、上海の静安寺(上海のとある繁華街)にあるバーでワインを飲みながら人生について語り合った。その日を気に、僕のプレゼンスへの気持ちは膨れ上がった。自分と同じような環境で、悩み、もがいている人の力になりたい。そして何よりも、自分の人生に大きな大きなインパクトを与えてくれたプレゼンスの創業者と一緒に仕事がしてみたい。命を燃やしている感覚を、ただ味わいたい。そんな気持ちを当時付き合っていた同僚の彼女(今の妻)に打ち明け、彼女も快く理解してくれた。僕はプレゼンスに挑戦する前に、一度欧米で学ぶ経験が欲しかった。理由は、プレゼンスコーチという仕事をする上で、海外勤務経験だけでなく、欧米の社会人大学院で学ぶことが貴重な経験になると思ったからだ。預金口座を見ると、そこには1,000万あった。7年半かけて必死に貯めたお金だ。これを投下して、夢を追う決断をした。当時29歳、人生一番の大勝負が始まった。

刈谷洋介の自分史〜その5〜は以下をクリック

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