この記事は約12分28秒で読むことができます。

深圳に拠点を移した理由と、頻繁に通った香港
僕が深圳に拠点を置いたのは2019年の秋、そしてコロナウイルスが本格したのが2020年の一月、これまでの間、僕は足繁く香港に通った。深圳に拠点を移した個人的な理由はいくつかあったが、当時を思い出すと以下が挙げられる。
①香港に近い
②東南アジアに近い
③アジアのシリコンバレーと呼ばれるテック企業の集積地
当時の僕は深圳を拠点にしつつ、東南アジアの主要都市を周遊する計画を持っていたが、コロナウイルス発生で断念せざるを得なかった。その分、毎週のように深圳から香港に通った。香港は皆さんご存知の通り、一国二制度という特殊な政治体制のもと、独自の文化が育まれている独特な場所だ。
コラム:一国二制度―― 一本の川が隔てる、二つの制度
僕が毎週のように深圳から香港へ通っていた当時、いつも不思議に感じていたのが、「入境((入国に相当))」という概念だった。川一本を挟んで向こう側は香港、こちら側は中国本土。民族も文化的なルーツも同じはずなのに、そこには明確な“境界”がある。この不思議な感覚の根底にあるのが、「一国二制度」という仕組みだ。
簡単に言えば、香港は中国という一つの国に属しながら、中国本土とは異なる社会制度・経済制度・法律を維持するというもの。1997年にイギリスから中国へ香港が返還される際、「50年間は高度な自治を保証する」という約束のもと、この制度が採用された。当時の僕は、深圳のマンションを出て、地下鉄に乗り、福田口岸や羅湖から香港に入るたびに、この制度の存在を実感していた。
具体的に何が違うかといえば、たとえば:
- 通貨:深圳は人民元、香港は香港ドル
- 法制度:中国は社会主義の大陸法系、香港はイギリス流のコモンロー
- ネット環境:深圳ではGoogleもInstagramも使えないけれど、香港では(当時は)普通に使える
- 政治体制:中国本土は共産党の一党体制だが、香港には選挙もあり、メディアの自由もあった(※徐々に制限されつつある)
川を渡るだけで、空気の匂い、人々の話し方、掲示板に貼られたポスターの内容までガラッと変わる。「国は一つ、でも制度は二つ」という構造が、日常の細部にまで影響を与えていた。けれど、この一国二制度も決して静的なものではない。2019年の逃亡犯条例改正案に端を発した大規模デモ、そして2020年の国家安全法の導入を境に、「二制度」の部分が揺らぎ始めた。僕が頻繁に香港を訪れていたあの頃、街にはまだ多くの自由が息づいていたが、それは今やかつての面影となりつつある。
深圳と香港。物理的な距離はほんのわずかでも、その間には制度という目に見えない深い溝が横たわっていた。だがだからこそ、僕はその間を歩きたかった。ふたつの制度を、五感で感じたかった。香港の歩道を歩きながら、僕は制度ではなく、その中で逞しく生きる人の暮らしに触れたかったのだ。
英語が好まれる街・香港での言語感覚
アヘン戦争後に清朝(当時の中国)からイギリスへと割譲されたこの香港という場所は、中国のようなイギリスのような、融合された文化が独自の空気を醸し出している。香港人は日本人にとても友好的なので、日本人にとっては過ごしやすい場所でもある。上記一国二制度のコラムでも書いた通り、大陸と香港では異なったイデオロギーが確かに存在しており、香港では北京語(普通話)を話すより英語か広東語を話す方が好まれるということも聞いていたので香港ではできる限り英語を使うようにしていた。大規模デモの直後でもあったので、このあたりは僕も少し敏感になっていた。
少し話を過去に戻したいと思う。僕は深圳に拠点を移す前に香港には二度訪れたことがあった。一つ目は新卒で入社した会社での海外出張、二つ目は2018年末に深圳、香港、マカオの旅行をした際だ(まさかこの1年後に深圳に住むことになるとは思いもしなかった)。ビジネスや旅行で来た際には、メインの観光地を回ることで精一杯だったので、深圳拠点からの訪問ではできるだけローカルな香港を味わいたかった。中国全省の旅はまだ始まってすらいない。そう考えると行ける場所は限られている。僕は香港の観光地よりもローカルな場所を回りたかったので、新界地区と直接接続される電車ルートをベースに移動することを決めた。
ちなみに深圳から香港へと入るにはいくつかのルートがある。そのいくつかを紹介する。
深圳拠点から香港へ──さまざまな越境ルート
①フェリールート
深圳蛇口(Shekou)港
深圳宝安(Fuyong)港(深圳空港近く)
②クロスボーダーバスルート
福田口岸 ⇔ 香港九龍(旺角・尖沙咀など)
皇崗口岸 ⇔ 香港島(銅鑼湾・湾仔など)
③電車ルート
羅湖(Lo Wu)ルート
福田口岸 / 落馬洲ルート
西九龍高鉄ルート(高速鉄道)
僕は好んで③を多用していた。深圳のマンションから地下鉄で福田や羅湖の駅へと移動し、そこから電車で香港へと入る。入境の際には一国二制度なのでもちろんパスポートが必要だ。日本人は香港入境の際にビザはいらないので、簡単な入境カードを記入して入ることができる。入境の際には、深圳-香港間を隔てている一本の川を越えるだけだ。同じ国、同じ民族にも関わらず「入境」という概念があることになんともいえない不思議さを感じるものの、沖縄返還前の日本もそうだったのだろうという感覚が込み上げる。また、日本人はビザなしで入れるが、中国人はビザが必要という複雑な政治体系もまた世界の多様さを感じさせる。

五感で感じた香港──ローカルを歩くという選択
僕は毎週1〜2回、コロナウイルス発生まで香港を訪問した。目的はここでも深圳同様”歩くこと”だ。とにかく歩いた。歩きまくった。五感で感じる香港を、とにかく満喫したかった。地図をみるとわかるが香港は、約260の島々と中国本土に接する九龍半島・新界地域で構成されている。
主な構成要素は以下の通り:
🔹 主な地域構成
- 香港島(Hong Kong Island)
- ビクトリア・ピークや中環(セントラル)など、政治・経済の中心地
- 九龍(Kowloon)
- 香港島の北側、本土に接した都市部。観光や住宅地が密集
- 新界(New Territories)
- 九龍のさらに北に広がる広大な地域。郊外や農村、工業団地も多い
- 離島(Outlying Islands)
- ランタオ島(大嶼山)、長洲、坪洲、南丫島(ラマ島)などを含む、約260の島々
- 一部は住宅地や観光地、空港などとして開発されている
つまり、香港全体は約260の島々と本土部(九龍・新界)から成る都市・地域集合体だ。僕は今回、主に新界地域を歩いた。一般的な観光で訪れるのは間違いなく九龍や香港島だろう。だが、深圳に拠点を置いているからこそ、ローカルな地域で現地の、地元の人たちの空気を感じたかった。その中でも印象深かったのが、落馬洲、上水、そして大学駅周辺の3つの地域だ。簡単に紹介したい。
落馬洲――国境と湿地のあわいにある場所

落馬洲は、まさに「国と国の境目」に位置する独特な空気を纏った場所だ。深圳側の福田口岸と橋で結ばれ、MTR(港鐵)東鉄線の終点の一つとして、香港と中国本土の越境地点のひとつとなっている。駅からすぐにイミグレーションがあり、形式上は中国国内から香港に「入境」する場所だが、地理的には一本の川と橋を隔てているだけ。この川が持つ境界としての意味が、目には見えない重みを帯びている。落馬洲の周辺は高層ビルや商業施設とは無縁で、むしろ湿地帯や野鳥観察で有名な米埔自然保護区が広がる。都市の喧騒とはかけ離れた自然の静寂がそこにはある。国境という人為の最前線に、手つかずの自然が広がっているというこのコントラストが、どこか不思議な感覚を呼び起こす。
上水――ローカルとグローバルが交錯する生活拠点

上水は、落馬洲から電車でわずか一駅南にある町で、深圳から最もアクセスしやすい香港の市街地のひとつだ。駅前にはショッピングモールが広がり、多くの人々が行き交っている。週末ともなると、深圳からの買い物客で賑わうらしい。特にかつては、粉ミルクや化粧品、日用品を大量に買い込む「水貨客」が話題になったこともあった。一方で、駅から少し歩けば、昔ながらの市場や飲茶店、住宅街が広がり、ローカル香港の姿がそこにある。雑踏の中に混ざって歩いていると、「国境近くの生活都市」という表現では語りきれない、もっと人間味あふれる、暮らしの気配を感じることができる。
大學――知の森に抱かれた学術都市

そしてもう一つの印象的な場所が大學駅。駅名の通り、香港中文大学(CUHK)のキャンパスがすぐそばにある。ここはまるで、都市の喧騒から一歩離れた、学びと静寂が共存する空間だ。緑に囲まれた丘陵地に大学施設が点在し、キャンパスの中を無料のシャトルバスが巡回している。学生たちが静かに語り合いながら歩くキャンパスには、どこかヨーロッパの大学都市を思わせる雰囲気がある。駅を出るとすぐに学問の世界に包まれるような感覚は、香港の中でも特にユニークな体験だった。僕が卒業したイギリスの大学院も「University」という駅にあったので、どこか懐かしさも感じた。
深圳に拠点を構え、毎週香港へと足を運んだ日々。その中で出会ったこの三つの街は、それぞれに異なる顔を持ち、僕にとっての香港の奥行きをぐっと深めてくれた。
もちろん九龍や香港とも魅力的だ。
九龍――カオスと活気のエネルギーが渦巻く

九龍は、香港島の対岸に位置するエリアで、最も「香港らしさ」を感じられる場所とも言えるかもしれない。旺角や尖沙咀など、どの駅で降りても街の熱気がすぐに肌に伝わってくる。人、車、看板、食べ物、雑多な音――すべてがごちゃ混ぜになって、まるで一つの生命体のように脈打っている。
特に、油麻地(ヤウマテイ)や佐敦(ジョーダン)あたりのローカルな下町は、少し裏道に入れば古びたビルの間に歴史ある茶餐廳(ローカル喫茶)や市場がひしめき合っていて、その雑然とした空間に、人間の生活のリアルを感じることができる。
ここは観光客が目当てにする夜景やショッピングモールだけでなく、庶民の香港が今もなお息づく場所だ。
香港島――歴史と未来が交差する都市の中枢

一方の香港島は、言わずと知れた政治・経済・文化の中心地。中環(セントラル)から金鐘(アドミラルティ)、湾仔(ワンチャイ)にかけては、まさに「アジアの金融都市」の顔を持つ。摩天楼が立ち並び、街全体がスーツ姿のビジネスパーソンであふれている。
けれども、ただのビジネス街では終わらないのが香港島の面白さだ。山手側に登ればビクトリア・ピークからの絶景が広がり、逆に海沿いに下ればスターフェリーでのんびりとした渡航も楽しめる。
さらに、上環や西營盤などの西側エリアにはレトロな街並みやカフェ、アートスペースが点在していて、香港島の新旧混在する魅力を存分に味わうことができる。
九龍の雑多なエネルギーと、香港島の洗練された喧騒。それぞれの町がまったく違うリズムで息をしていて、それを交互に歩くたびに、香港という都市の懐の深さを感じることができた。次に足を運ぶときは、どんな風景に出会えるのだろうか――そんな期待が、今もどこかに残っている。
コロナウイルスが発生して感じたことだが、できる限り香港に足を運んでおいて良かったと心から感じている。本来は香港島、九龍、新界だけでなく、離島にも足を伸ばしてみたかったが、コロナが発生してしまった以上、それは不可能となった。何度も足を運んで感じることは、僕は香港という街が大好きだ。悲しい歴史の中でも、独自の文化を築き上げてきたその逞しさ、そして、アジアが世界に誇る金融とアカデミックの中心地、英語と中国語が共存する国際性、僕にとってはとても肌感覚が合う街だった。そんなことを感じつつ、ここから約4ヶ月間、コロナで全く移動できない日々が始まるのだった。
COACHING-L代表
刈谷 洋介
※時代背景は筆者が旅をした2019~2020年をベースに書いておりますのでご了承ください。
コラム2:アヘン戦争と香港割譲――この街の始まりに横たわる記憶
僕が香港を歩いていて、時折ふと感じるのは、この都市に流れる独特の「外の空気」だ。中国の一部でありながら、どこか中国ではない感覚。英語と広東語が入り混じり、イギリス風の赤いポストが街角に残る。スターバックスの隣にある道教の廟、そしてハイテクと祈りが同居するこの街のあり方。そのすべてに、歴史の影が見え隠れしている。
この空気感のルーツを辿ると、避けて通れないのがアヘン戦争だ。
時は19世紀、イギリスは茶や絹を清から輸入する一方で、清に対して売れる商品が少なく、一方的な貿易赤字が拡大していた。その赤字を埋めるため、イギリスが目をつけたのがアヘン(麻薬)。インドで生産したアヘンを中国へ密輸することで、貿易収支を逆転させようとしたのだ。当然、清朝政府はこれを黙って見てはいられなかった。アヘンの蔓延は国を蝕み、民衆の健康と秩序を崩壊させていった。林則徐という役人が断固たる処置を講じ、アヘンを押収・焼却するなどの行動に出た。それに対し、イギリスは武力での報復を選び、1840年に開戦――これが第一次アヘン戦争である。戦争は清の敗北に終わり、1842年、南京条約が結ばれた。その結果、イギリスは清から香港島を割譲されることになる。
それが、この都市・香港の西洋との最初の接点だった。
その後も、第二次アヘン戦争(1856〜60)やさらなる不平等条約によって、九龍半島の一部(1860年)が割譲され、新界(1898年)は99年間の期限付きで「租借」されることになる。
つまり現在の香港の大部分は、軍事的敗北と不平等条約の積み重ねによって外国の手に渡ったという歴史的事実に基づいている。地図上の境界線は、理性でも正義でもなく、戦争の勝敗によって引かれたのだ。
この歴史のうえに築かれた「香港」という都市は、ある意味では常に“はざま”にあった。中国とイギリス、東洋と西洋、伝統と近代。その狭間に立ち続けることで、逆に独自の文化と美意識を育んでいったのかもしれない。
だからこそ、今の香港を歩くたびに、僕はその街並みの奥にある「割譲された歴史」の気配を感じる。それは目には見えないけれど、石畳の路地や、古い看板、フェリー乗り場の風の匂いに、確かに残っている。僕がその空気を求めて足を運ぶ理由の一つは、きっとその記憶に触れたかったからなのだと思う。
そして、ふと立ち止まって考える。
目には見えない「他国の影響下にある」という意味では、日本もまた、まったく他人事ではないのかもしれない。
日本は第二次世界大戦の敗戦を経て、アメリカの占領を受け、主権を取り戻したはずのいまも、在日米軍基地が各地に点在している。円は日本の通貨でありながら、為替や経済政策にはアメリカの動向が色濃く影響する。法律やビジネスの仕組みも、どこかでアメリカ的な価値観に沿って構築されてきた。
もちろん香港とは違う形ではある。でも、見えない線が国の中に引かれているという点では、案外近いものがあるのかもしれない。
だから僕は、香港のその境界線の上を歩きながら、自分の足元にもまた、気づかぬうちに誰かの線が引かれているのではないか――そんなことを思わずにはいられなかった。
中国全省の旅【Vol.5】は以下をクリック
香港という“結果”を見た後に、
その“起点”とも言える虎門の地を訪れる意味は何か。
アヘン戦争の発端に触れ、歴史の重みに立ち会い、
僕は「見る」という行為の本質を再確認することになる。
次回Vol.5、どうぞお楽しみに。
-
中国全省を旅して 【Vol.5】|広東省虎門:アヘン戦争の傷跡と再出発の記憶
この記事は約7分7秒で読むことができます。 広東省虎門に残るアヘン戦争の傷跡 目次 / Contents コロナ明け、再始動した小さな旅の始まりコラム①:虎門とアヘン戦争の関係虎門とアヘン戦争の関係ま …
続きを見る
「変わりたい」「自分らしく生きたい」と思っているあなたへ
この旅の記録は、旅行記ではありません。
“自分を取り戻す”ための旅であり、内なる声に耳を傾けるプロセスの記録です。
「自分のままで生きる力」を取り戻したい
「次の一歩」がなかなか踏み出せない
「これでいいのか」と心のどこかで問い続けている
そんな想いを抱えている方へ。
僕が、あなたの“人生の旅”に寄り添います。
是非以下から無料説明会(オリエンテーション)にお申し込みください。

ライフコーチングを受けたい方はオンライン無料説明会へお申し込みください。

説明会は代表の刈谷(@Yosuke_Kariya)が担当します!お待ちしています!